大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和26年(合わ)239号 判決 1960年10月28日

判決

本籍 和歌山県新宮市三輪崎百番地

住居 東京都葛飾区本田木根川町七十八番地

ユニコン産業株式会社役員

角  弘

大正十一年十一月五日生

右の者に対する窃盗、強盗殺人(予備的訴因殺人)被告事件について、昭和二十五年五月十二日当審が言渡した判決に対し、検察官から東京高等裁判所に控訴の申立をしたところ、昭和二十六年七月十日同裁判所より破棄差戻の判決があつたので、当裁判所はさらに審理のうえ、次のとおり判決する。

主文

一、被告人を懲役一年に処する。但し本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用中証人竹入ふじ子に昭和二十五年一月十八日(差戻前当審第四、五回に喚問分)および昭和二十六年五月十二日(控訴審第二回に喚問分)に支給した分は被告人の負担とする。

二、本件公訴事実中、被告人が米兵ジェイムス・W・シャンクスおよびエドワード・G・スタングと共謀して昭和二十四年四月二十六日午前零時過頃、東京都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先路上において、荒川文夫に対して行つたとする強盗殺人(予備的に殺人)の訴因(後記理由中第二に掲記の事実)について被告人はいずれも無罪。

理由

一、窃盗の訴因に関する判断

(事実)

被告人は

第一、昭和二十四年二月十五日頃、千葉県館山市船形町四百二番地高野さく方において、竹入ふじ子の所有乃至保管にかかる現金一万円、背広一着外衣類等十数点(時価合計約三万円相当)を窃取し、

第二、米兵ジェイムス・W・シャンクス(以下シャンクスと略称)およびエドワード・G・スタング(以下スタングと略称)等と共謀のうえ、同年四月二十四日午後九時三十分頃、東京都渋谷区上通三丁目二十七番地時計商千野晴方において、店員の隙をうかがい、同人所有のスイス製バソロン十七型ステンレス側懐中時計一個外懐中時計八個(時価合計約六万円相当)を窃取したものである。

(証拠)

第一、証拠の標目(省略)

第二、被告人は、判示第二の窃盗の犯罪事実につき、共謀の事実を否認してこれを争つているが、この主張は次の事由により採用できない。

すなわち

(一) 被告人と米兵シャンクス等との交渉関係並びに右シャンクス等の性行およびこれに対する被告人の認識

(1) 差戻前の当審第三回公判調書中、被告人の「シャンクスとは昭和二十四年一月頃渋谷の竹入ふじ子がやつている『一ふじ』という飲屋で知合い」、又「スタングとは本件時計の窃盗のときに千成(渋谷駅裏の大和田マーケットに近い飲屋)で知つた「旨の供述記載(記録九二丁以下)によると、被告人と右シャンクス等二名とはいずれも渋谷の飲屋に出入中知り合いになつたものであることが認められる。

(2) 而して右同調書中被告人の「シャンクスは二月(昭和二十四年)に千葉に行つた当時は兵営から逃亡していた。そのため向うの監獄に入れられていて四月二十二、三日頃監獄から出て来て兵営に帰らず『一ふじ』の竹入ふじ子の処に来て竹入ふじ子と一緒に附近の待合を泊り歩いていた」、「シャンクスは荒つぽいことをするのは男らしいと言つてきかないのです、私は前に、悪いことをするより品物を売つた方がよいと言つたが駄目だと言つたのでそれ切り言わなかつた」、「シャンクスが竹入と一緒にビールをかつ払つたのを私が謝つて払つてやつたこともある」、「シャンクスがビール一本かつ払つたので私がその金を支払つたらシャンクスが何故払うのだと怒つたこともあつたくらいだ」(記録九三丁以下)、「シャンクスが辻強盗をしたりしていることを聞いて交際していたのは、竹入ふじ子の洋服の借金の件もあるし、また竹入のところで飲んだ酒の代金もあるので交際を断ることができなかつた」(同一一三丁)、「時計のことでは詰問はできない、言つてわかる人ならよいがシャンクスはそんな人間ではない」(九四丁)旨の供述記載および田村英三郎の検察官に対する供述調書中、「本年(昭和二十四年)四月中旬頃、角は私に対し、知合のGIがモンキーハウスから出て来るのだが、借金もあるし、自分としても今後のことを考えねばならないと心配していたが、しばらくして角の話ではジェームスというGIがモンキーハウスから出て来て渋谷のある所で会うのだが、同人もGIも酒が一日もなくてはならぬ人間でGIはキャンプの品物を持出しては売つて生活していると話していた」旨の供述記載(記録五三四丁)を綜合すると、シャンクスは、軍の営倉に入れられた前歴の持主で、軍の品物を持出して売つたり、他人の物を持逃げする等素行が極めて悪く、被告人は当時右シャンクスの右の如き性行を十分承知しながら同人およびその同僚であるスタングと交際を続けていたことが認められる。

(二) 本件犯行当時およびその前後の状況

(1) 米兵シャンクス等を千野晴方へ道案内した者は、差戻前第三回公判調書中被告人の供述として「シャンクスが〃ビック・ウォッチ・ショップ何処〃と聞いたので其所にあると教えた」、「それでシャンクスが先になつて行き店には私、スタング・シャンクス、それに名前のわからない米兵の順で入つた」旨の記載(記録八九丁以下)によると、被告人であることが認められる。

(2) 次に千野晴方における本件犯行の状況並びにこれに対する被告人等の態度について検討するに、

(イ) 千野晴の検察官に対する供述調書中「同行の日本人が懐中時計を見せてくれと言うので私は店員を指図して店の陳列ケースの中から高級品の懐中時計を十数個陳列ケースの上に出てし見せた、すると兵隊の内二名は私達の出した時計を手に取つてケースを開けて中の機械等を見たりいじくりまわわていた。私は十五、六才の時から現在まで時計商をしているので第六感でこのお客は買いそうにもないと感じ、何かわけがあるなと感じたので兵隊達の行動に注意していると時計をいじつている兵隊の後にいたもう一人の兵隊の方が私達の隙を見るようにして左手で陳列ケース上の懐中時計一個を手づかみにしてズボンのポケットに入れて知らぬ顔をして居たので私は兵隊に時計を返してくれと言つたが返してくれないので二、三度請求した、その兵隊は言葉が通じないのか知らぬ顔をしているので私は同行の日本人が通訳だと思いその人に返して貰うように頼んでくれと再三頼んだ、しかしその日本人は私の頼みを兵隊に話してもくれず知らぬ顔をして無言で兵隊の横に立つているだけだつた、そのうちに外出先から帰つた子供の総太郎等と一緒になり返してくれと兵隊に言つていると、矢庭に時計をいじつていた兵隊二人がケースの上に出していた時計を両手でわしづかみにして店の外にかけ出して逃げたので私達は泥棒と叫びながら追いかけた」、「一、二分して帰つて来たらもう店には誰もいなかつた」旨の供述記載(記録二二丁以下)

(ロ) 差戻後の当審第四回公判調書中証人千野晴の「私はその日本人に外国人から時計を返して貰えるように話をしてくれといつた」、「その日本人は何を頼まれても知らぬ顔をしていた」、「外国人が時計を盗つた時日本人はポカンとしていた」旨の供述記載(記録五四丁以下)

(ハ) (ⅰ) 差戻前の当審第三回公判調書中被告人の「私は一番奥にいて見ていた、皆一列に並んで見ていた」、(記録八九丁以下)「米兵が時計を持つて逃げたのに店員と一緒に追いかけなかつたのは後から考えれば申しわけないと思うが店に入つてからも幾らも時間が経つていないし、また時計を見ていて急に飛び出したのでわからなかつた」(九五丁以下)旨の供述記載、

(ⅱ) 差戻後の当審第十回公判調書中被告人の知らん顔といえば「知らん顔だが、今考えれば常識でおかしいと考えるかも知れぬが、あの頃はなかなか思い切つた行動がとれなかつた」、「外見的、客観的に千野の供述している風になる」旨の供述記載(一七八―一一九問答)

を綜合すれば、被告人は同行の米兵シャンクス等が時計を盗んでポケットに入れた、これを目撃しながら、しかも店の主人等よりその返却方を通訳して頼んでほしい旨再三にわたり懇請を受けたにも拘わらず、終始これに応ずることなく、米兵等が逃げ出した際にも一向にこれを防止する態度に出なかつたことが認められる。

(三) 右(二)の事実と前記(一)で認定したシャンクス等の性行および被告人と同人等との交際の状況等を綜合して考察すれば、被告人は右行為当時すくなくとも右シャンクス等が時計を窃取する意思をもつていることを予知しながら同人等を千野晴方に案内し暗黙裡に同人等と意を通じて判示窃盗行為に及んだものと認めるのが相当である。

(法令の適用)

被告人の判示各所為は、いずれも刑法第二百三十五条(判示第二の事実については更に同法第六十条)に該当するところ、右は同法第四十五条前段の併合罪であるから、同法第四十七条本文、第十条に則り犯情の重いと認められる判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処し、諸般の情状を考慮し、同法第二十五条第一項により本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。なお訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により主文第三項のとおり被告人に負担させることとする。

二、強盗殺人(予備的に殺人)の訴因に関する判断

第一、公訴事実

(一)  本位的訴因(強盗殺人)

被告人は昭和二十四年四月二十六日午前零時過頃、米兵シャンクスおよびスタングと同伴して東京都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中、通行人荒川文夫と行き合うや、被告人が同人の上衣を強取することを発議して右米兵両名と共謀し、先ず被告人が右荒川文夫に立向つたが抵抗を受けたので被告人等三名が協力して同人を捉え、殺意をもつてスタングが所携のモンキーレンチで同人の頭部を乱打し、シャンクスが所携のジャックナイフで同人の胸部、左上膊部等を数回突き剌し、更に被告人等三名がこれを同所畑中の古井戸に投入れ、よつて心のうタンポナーデ、脳震盪、並びに溺死により死亡せしめ、これを殺害したものである。

(二)  予備的訴因(殺人)

被告人は昭和二十四年四月二十六日午前零時過頃、米兵シャンクスおよびスタングと同伴して東京都荒川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中、荒川文夫と行き合い、被告人等が右荒川に道をたずねたところ、同人が笑つたためこれに憤慨し、被告人は右シャンクスおよびスタングと共謀のうえ、協力して右荒川と格斗し、殺意をもつてスタングが所携のモンキーレンチで右荒川の頭部を乱打し、シャンクスが所携のジャックナイフで荒川の胸部、左上膊部等を突き剌し、更に被告人等三名がこれを同所畑中の古井戸内に投入れ、よつて間もなく同所において右荒川をして心のうタンポナーデ、脳震盪並びに溺死により死亡せしめ、これを殺害したものである。

第二、裁判所の判断

(一)  (1) 右各公訴事実のうち、被告人が昭和二十四年四月二十六日午前零時過頃、米兵シャンクスおよびスタングと同伴して東京都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先路上を通行中、荒川文夫と行き逢つたこと、その際シャンクスが同人と格斗し、スタングが所携のモンキーレンチで同人の頭部を乱打し、さらにシャンクスが所携のジャックナイフで同人の胸部等を数回突き剌したこと、および同人が右暴行により頭部に挫創、胸部、上膊部等に剌創の傷害を蒙り、同所に近接した畑地内の古井戸内で心のうタンポナーデ、脳震盪および溺死に因り死亡していたことは

(イ) 差戻前の当審第三回公判調書並びに差戻後の当審第十回公判調書中被告人の供述記載(記録一〇一丁以下、一四九丁以下)

(ロ) スタングの供述書(後記第二の(三)の(2)のの(ロ)のの第二ステートメント)中「その日本人はシャンクスを抛り投げ、シャンクスは通路の近くの畑に落ちは、私はそこでかけでて飲屋の一軒で手に入れたビール瓶で彼の頭を撲りました―中略―彼を撲り倒しました、シャンクスが喧嘩に戻り、その男が倒れている間に彼の上に乗りかかりました、私はシャンクスがナイフで彼を撲つているのを見ました」旨の供述記載(同一三〇丁以下)

(ハ) 差戻前第四回公判調書中竹入ふじ子の「自分は(昭和二十四年四月)二十七日にシャンクス、スタング、梅谷麗子と一緒に千葉県の館山に行つたが、館山にいる間にシャンクスはスタングがモンキーで相手を二回程殴つた、自分はおこつて持つていたナイフでさしたと言つていた」(同一五二丁)旨の供述記載

(ニ) 検察官作成の検証調書(記録第一冊四〇丁以下)

(ホ) 中館久平、皆川守共同作成の鑑定書中荒川文夫の身体に存した傷害の部位程度並びに死因につき右に符合する記載(同五一丁以下)

を綜合することにより夫々これを認めることができる。

(2) 荒川が前記古井戸内で死亡したことは右認定のとおりであるが、同人がことここに至つた原因すなわち同人が右古井戸に入つた経過については、荒川自身その過失により落ち込んだと主張するシャンクス、スタングの各ステートメントおよび被告人の当審(差戻前および後の)での供述とこれを否定する証人中館久平、同竹入ふじ子、同柏原正男、同山岸巌の差戻前の当審での供述および前掲中館久平外一名の鑑定書が存在している。

しかし

(イ) 中館久平外一名作成の鑑定書中「被害者荒川にはその頭部外景において創口の長径は約一.八センチ乃至五.〇センチ、深ち骨膜に達する挫創八個ある」旨の記載(記録第一冊五一丁以下)

(ロ) 差戻前の当審第七回公判調書中証人中館久平の「本件の如き八個の挫創が頭部にあれば脳震盪が起つているとみてよい、脳震盪が起つていれば半歩も歩くことはできない」旨の供述記録(同二七一丁以下)

(ハ) 同第五回公判調書中証人竹入ふじ子の「船形でシャンクスから被害者を井戸に入れ石を投げ込んだときたいが、誰がやつたかはきいていない」旨の供述記載(同一八七丁以下、一九〇丁以下)

(ニ) 同第十一回公判調書中証人柏原正男の「角は、昨日大井町で人殺しがあつて、その犯人はGIで自分はその現場にいたと申していた、皆が質問したら被害者を井戸の中に投げ入れてその上から石を入れたと申していた」「井戸に入れたのはGIだと聞いた」旨の供述記載(同三九四丁以下、四〇〇丁以下)

(ホ) 同第十回公判調書中証人山岸巌の「一人のGIがナイフで剌してもう一人のGIがモンキーレンチで殴つて殺してそれを古井戸までもつていつてその中に入れたのを見たという角の話であつた」旨の供述記載(同三七八丁以下)

(ヘ) 同第三回公判調書中被告人の「すると被害者が見えなくなつていたので見たらシャンクスが井戸のところで中腰にかがんで大きい石を投げ入れていたのを見た」旨の供述記載(同一〇二丁以下)

(ト) 検察官作成の検証調書、押収に係るジャンパー(昭和二十五年証第四四号の一一)により認めうる被害者荒川が前記剌創を受けた後着用ジャンパーを脱がされ、しかも右ジャンパーが古井戸内から発見されたこと

を綜合すれば、被告人および弁護人が主張するように荒川はシャンクス等による暴行を避けてその場より離脱する途中その過失により井戸に落込んだと認めるよりシャンクス等のために井戸に投げ入れられたものと認めるのが相当である。

(二)  よつてまずシャンクス等の右犯行が検察官において本位的訴因で主張するように被害者荒川よりその上衣を強取する意図で行われたものであるか否かについて按ずるに、

(1) 積極証拠としてはシャンクスの米軍々事裁判所におけるステートメント(記録第一冊二九丁以下)が存在し、その裏付として竹入ふじ子の検察官に対する供述調書中第六項後半(同五四七丁以下)および柏原正男の検察官に対する供述調書(同五三六丁以下)がある。

(2) しかしこれ等の証拠は、差戻前の当審第五回公判調書中証人竹入ふじ子(記録一八九丁以下)、同梅谷麗子(同一七六丁以下)および同第十一回公判調書中証人柏原正男(同三九〇丁以下)の各供述記載並びにスタングの米軍々事裁判所でのステートメント(同三五丁以下)および竹入ふじ子の検察官に対する供述調書中第六項前半(同五四六丁裏以下)の供述記載と彼此対照し且つ検察官作成の検証調書(同四〇丁以下)の記載および差戻後の昭和二十七年三月二十二日附証人尋問調書中証人岡田正人の供述記載(同二八丁以下)により認めうる昭和二十四年四月二十六日荒川の死体発見当時その身体には時計、現金等が存在しその所持品で奪われたと疑うに足る形迹の存在しなかつた事実にかんがみると、にわかに措信し難いのみならず、その他証拠を精査しても、右犯行が検察官主張の如く上衣を強奪する目的で行われたと認めうるものは毫も存在しない。

(三)  次にシャンクス等の右犯行が検察官主張の如く被告人と右米兵等との共同犯行であるか否かについて按ずるに、

(1) 一件証拠によると、荒川文夫に対する右犯行は加害者側の者が検察官主張の日時場所で荒川と偶然行き逢い、加害者側より道を尋ねたところ、荒川が笑つたことから、期せずして行われたものであることが明らかである。しからばこの犯行は偶発的犯行であつて予め事前にいわゆる共同謀議の行われた事案でないことは論を俟たない。

このような事案において、検察官主張の如く被告人がシャンクスおよびスタングと共謀の上前記犯行を行つたというには、被告人が右暴行の行われた際その現場にいたというだけでは足りず、さらに右現場における同人の個別的、具体的行動中に、他の暴行者等と互に相呼応し相協力して荒川を殺害する意図の下に同人に暴行を加えようとする意思の発現を認めるに足るものがなければならないと解する。

(2) 検察官は公訴事実において被告人がシャンクスおよびスタングと協力して(A)「荒川と格斗した所為」および(B)「荒川を古井戸内に投入した所為」に右にいわゆる共同意思の発現を認めうると主張している。

(A) (イ)一件証拠中、被告人がシャンクスおよびスタングと協力して「荒川と格斗した所為」を認めうる証拠として検察官が主張している主な証拠は一、シャンクス名義およびスタング名義の各ステートメントと題する書面一、竹入ふじ子の昭和二十四年七月五日附検察官調書および差戻前の当審第四回公判調書中の供述記載一、梅谷麗子の差戻前の当審第五回公判調書中の供述記載一、領置にかかるスプリングコート(昭和二十九年第七七六号の一)およびワイシャツ(同証号の七)である。而してこれ等の証拠のうち

① シャンクスの前記ステートメントには「丘の上にきた時日本人が歩いて来るのを見つけた、角は彼に話しかけ格斗を始めた、自分も格斗に参加した、誰か自分を背負投にしたので、自分は道路にぶつつけられた、自分は起上り再び格斗に参加したところ再び地上に投げ倒された」旨の供述記載(記録第一冊二九丁以下)、

② スタングの前記ステートメントには、「丁度自分は先頭を歩いていた時、反対の方向に行く人に会つた、次にきいたものは誰かの叫びであつた、自分は振返つたところ他の者が格斗していた、自分が戻つていつたところその日本人は二人を投げとばしていた、自分は右の腰のポケットの中にネジ廻しを持つていたのを取り出して日人本の頭部を数回打つた、自分はそこに立つてシャンクスと角が日本人と格斗しているのを傍観した」旨の供述記載(同三五丁以下)、

③ 竹入ふじ子の昭和二十四年七月五日附検察官供述調書には「船形に行つて二日目位の時にシャンクスからのけんかの様子をきいた、シャンクスは巡査に道をきくと巡査がエヘラ笑いをしたのでけんかになり角かスタングが道を聞いたらしく先にけんかをして相手に殴られたのシャンクスが手を出したところ、少し押され気味であつたのをスタングが何かで相手を殴ると相手が倒れたとか転んだとかであると云い、自分がナイフでさしたのがわかつていたかと聞くとシャンクスは酔つ払つていたのでわからないと云つていた、自分の想像だが角も傍にいたから兵隊二人と一緒に何かをやつたと思う」旨の供述記載(同五四六丁裏以下)、

④ 差戻前の当審第四回公判調書中証入竹入ふじ子の供述部分には「三人で帰りに歌を唱つたところ相手が笑つたのでけんかになり殺したということを館山に行つたときにシャンクスが云つていた、シャンクスの云うところでは角が最初相手に投げ飛ばされた、そこで自分がおこつて組みついたが相手は強くてやられそうになつた、するとそれを見ていたスタングがモンキーで二回程殴つた、自分はおこつて持つていたナイフでさしたと申していた」旨の記載(同一五二丁以下)および「角に、昨日何処でけんかしたのと聞くと、角は大変だつたと云い、向うから来た男に渋谷へ行くにはどちらへ行くのかと道をきいたら相手の男がセセラ笑つて馬鹿にされたのでけんかになつたと云い、三人の中誰が道を聞いたかということは云わなかつたがシャンクスは自分と一緒の時、何時も自分に道をきかせる、この時は角が案内役だから多分角が道をきいたのではないかと思つた、また最初相手とけんかを始めたのは誰であつたか聞かなかつたが、自分がすぐに〃あなたが一緒にいてどうしてそんな事をしたの〃というと角は〃あの時は酔払つて何が何だか分らずにやつてしまつた〃と云つた、その時角は自分に対し、〃何もしなかつた〃とか、或は〃兵隊二人がやつたのだ〃とか〃自分は関係ない〃とか云う様なことは何も云わなかつたから、自分は角が道をきいて先づ相手とけんかしたものと思う、角は平素手が早いので角が巡査とけんかをして、シャンクスがこれに加勢したのではないかと思う」旨の供述記載(同五四三丁裏以下)、

⑤ 差戻前の当審第五回公判調書中証人梅谷麗子の供述部分には「五日位船形にいた間にシャンクスやスタングから、被害者に大井町で道を聞いたら相手が英語がわからなくて笑つた、それで通り過ぎてから何かその人が大きい声を出したので馬鹿にされたものと思い殴つたら投げ飛ばされてしまつた、被告人も向うから殴られたときいた」旨の供述記載(同一七六丁以下)

⑥ 領置にかかるスプリングコートには左ポケット外側部等に破損個所、胸部に血痕の附着個所、ワイシャツには襟附近に血痕の附着個所(後記第二の(三)の(2)の(A)の(ハ)参照)

が存在し、これ等の証拠を綜合すれば、被告人が右犯行現場において荒川に道をたずねて笑われ、憤慨して同人に立向つて行つて投げ飛ばされ、シャンクス、スタングがこれに加勢して被告人と共に被害者と格斗した事実が認められないでもないようである。

しかしながら

(ロ) シャンクスおよびスタングの各ステートメント中被告人の格斗に関する供述記載には、次に指摘する①ないし⑤の事実を勘案して考察するとき、果して真実を物語つているか疑いが存し、にわかに措信できない。

① 差戻前の当審取寄にかかる米軍々事裁判所のシャンクス等に対する訴訟記録の一部および差戻前の当審第五回公判調書によると、シャンクスおよびスタングはいずれも軍事裁判所に荒川文夫を殺害した被疑事実で起訴されたが、その審理においては終始犯行を否認したことおよび同人等は昭和二十五年一月十八日差戻前の当審公判に証人として喚問された際軍事裁判所で言渡された有罪判決の再審査に不利益となる虞のあることを事由としての証言を拒絶したことが明らかであつて、同人等にはその罪責を免れまたはこれを軽減する意図があり、必ずしも真実を述ぺているとは保障できない。

② シャンクスおよびスタングは同一の日時場所で同一の経験をしているのに右ステートメントで供述していることは必ずしも一致していない。

③ 差戻後の当審において在日アメリカ合衆国陸軍本部に取調方を嘱託して入手した昭和三十三年(一九五八年)十二月十日附スタングの供述書(以下第二ステートメント略称)にはスタングの供述として次の記載がある。

問「その踏切番と別れてから一人の日本人と会つたか」

答「はい、駅に向つて線路の左側の道路上で」

問「その日本人と会つた時の君、シャンクス及び角の位置を憶えているか」

問「いいえ、憶えていません」

問「この日本人が何を着ていたか憶えているか」

答「いいえ」

問「角はその日本人のコートのことで君に〃彼のコートを取ろう〃といつたか」

答「いいえ」

問「角は何もいわずにこの男にとびかかつたか」

答「いいえ、角と彼は口げんかを始めました」

問「その日本人、角、シャンクス及び君との間のけんかの模様を述べなさい」

答「角とこの日本人が口論をはじめ、そこでシャンクスもその日本人と口論をはじめました、その日本人はシャンクスを放り投げ、シャンクスは通路の近くの畑に落ちました、私はそこでかけ出て飲屋のうちの一軒で手に入れたビールびんで彼の頭を殴りました、そのビールびんが割れました、私はそれから拳固で彼をなぐりはじめ彼をなぐり倒しました、シャンクスがけんかに戻りその男が倒れている間に彼の上に乗りかかりました、私はシャンクスがナイフで彼をなぐつているのを見ました、その日本人はシャンクスを投げとばし、立上つて畑を横切つて逃げ出しました、私がこの日本人を見たのはこれが最後です」

問「角は実際にこの日本人とけんかをしたか」

答「いいえ、彼は口論しただけです」

スタングはこのステートメントでは前掲昭和二十五年五月三日附ステートメント(以下第一ステートメント略称)と異り本件犯行現場における被告人の格斗行為を否定している。

この両ステートメントの間には八年半の時間が経過している。人間の記憶が時間の経過により忘失ないし不鮮明となることは何人にも免れ難い現象である。しかし、スタングが本件事案で経験したことは殺人という異常なしかも重大な出来事であつて、このような異常で且つ重大な経験はその性質上容易に忘失し難い事柄であるから、右の如き時間の経過があつても、すくなく共その大綱においては忘失があるとは到底考えられない。

而して第一ステートメントは荒川殺害の容疑で逮捕され精神上の平静を欠きしかも前記第二の(三)の(2)の(A)の(ロ)の①で考察したとおりその罪責を免れまたはこれを軽減する意図の強い時期になされたものであるに対し、第二ステートメントは事件後八年半を経過し本国の刑務所で刑期の約半分を服役し精神上の平静を取り戻した状況においなされたものである。もつともスタングは第二ステートメントで供述当時刑が確定しているので特に被告人をかばうため事実を曲げて被告人に有利なことを供述することも可能性としては考えられないこともないが、スタングは第二ステートメントで「今は被―被告人―に対し何も悪感情を持つて居ません」と述べているが「軍事裁判当時は彼が私に不利な証言をしたので彼に腹を立てて居ました」とも述べて居り、しかも両者の交際等にも良心に反して事実を曲げて供述するまでのものがあつたとは認められない。

しからば第二ステートメントにおけるスタングの供述は虚構なものとしてただちに排斥し去ることはできないといわねばならない。

なお第二ステートメントには、「自分はスパナで荒川をなぐつたおぼえはなく、ビールびんでなぐつた」旨の供述記載があり、これは確かに、既に認定された客観的事実と相違しているが、差戻前の当審第三回公判調事(記録九八丁以下)および差戻後の当審第十回公判調書中被告人の各供述記載(同一四九丁以下)によれば、スタングは本件犯行当時ビールびんを携帯していたことが明らかであり、従つて同人がスパナとビールびんを取りちがえて供述したものとも推測することができるのであつて、前記部分が前段認定の事実に反するという一事をもつてしては、スタングの第二ステートメント中被告人に関する前記供述記載部分が虚偽であるということはできない。

④ 領置にかかる前掲スプリングコートは右犯行当時被告人が着用していたものであつて、同コートにはさきに指摘したとおりの破損個所がある。この破損は右犯行現場で生じたものと認められるので、被告人が当時行つた行動をさかのぼつて推測する有力な資料であるが、後記第二の(三)の(A)の(2)の(ハ)で認定した事実によると、右破損の形状その他からは被告人が右現場で格斗を行つたと推測しうる資料に乏しい。

⑤ 被告人は終始荒川の殺害行為の現場にはいたがこれに協力加功したことはない旨供述し、シャンクス等のステートメントと対立しているのであるが、前記③、④の事実並びに同人は後記第二の(三)の(B)で認定しているとおり荒川殺害の事実が新聞等に報道されない前すなわち犯行の朝自ら進んで多数の同僚にその事実を物語つて居り、犯罪者は犯罪の発覚を虞れこれを極力隠すのが人情であることにかんがみると、被告人の供述も一概に虚構なものとして否定し去ることには疑いがないでもない。

(ハ) ① 差戻前の当審第三回公判調書中被告人の供述記載(記録八八丁以下)同第五回公判調書中証人田村英三郎の供述記載(記録一九七丁以下)、差戻後の当審第十回公判調書中被告人の供述記載(同一四九丁以下)並びに領置にかかるスプリングコート(昭和二十九年証第七七六号の一)、ワイシャツ(同号証の七)によれば、被告人は本件当時右ワイシャツおよびスプリングコートを着用していたこと並びに右スプリングコートは当時勤務先の同僚であつた田村英三郎から借用したものであることが認められる。而して右スプリングコートを調査すると、同コートにはその左ポケットの外側部に長さ約七センチの縦の破れ目、一番下のボタン(第三ボタン)のつけ根の部分に約二センチの破れ、袖および裾の部分に若干の極く小さい「ほころび」ないし破損が存在することが認められ、また被告人の差戻前および後の当審における供述によれば右スプリングコートの胸部、右ワイシャツの襟附近に噴霧状の血痕の附着していたことが認められる。而して右スプリングコートに存する各破れ目は自然の消耗あるいは偶然の事故によるものではなく何らかの外力によつてしかも本件現場で発生したものであることは当審証人木村英三郎(旧姓田村)の証言(差戻後の第十六回公判期日)並びに被告人の差戻の前および後に亘り当審で行つた供述によつて明らかであり、被告人の当時の行動を推測する有力な資料である。

ところで、差戻後の当審第十二回公判調書(記録二四四丁以下)中被告人の供述記載によれば、被告人は柔道の心得があり、また差戻後の同調書中証人黒巣寅蔵の供述記載によれば、被害者荒川もまた剣道および柔道(自称二段)の経験があつたことが認められる。従つてもし柔道の経験がある右両名が格斗したとすれば、たとえそれが「けんか」であつても一応は柔道の型に組んだ可能性が強いといわねばならない。そして右黒巣証人の供述記載によると荒川は「左きき」であり、また同調書中鑑定人田島鉄次郎の供述記載によれば、「左きき」の者が相手と組む際は、左手で相手の右前襟を、右手で相手の左袖をつかむのが柔道の正しい型であると認められる。従つて「左きき」の一方が投げ技をかければ相手の着衣の右前襟と左袖の部分に強い力が加わり、その部分が最も破れやすいわけである。差戻後の当審第十三回公判調書中右田島鑑定人の供述記載によれば、柔道における投げ技で最も多いのは背負投或は大外刈であつて、特に背負投の場合は手前に引く力が入るため相手の衣服に強い力が加わることが認められる。そして前記皆川守外一名作成にかかる鑑定書、検察官江幅修三作成の検証調書によると被害者荒川は身長約百六十糎、体重十七貫七百刄でその体格も良かつたことが認められ、また被告人の当公判廷における供述によるとその体重もまた標準以上と認められるから、もし両名が格斗したとすれば互いに相手の着衣に相当強い力が働いたと考えられる。殊に被害者荒川が本件当時着用していたと認められる領置にかかるワイシャツ(昭和二十九年証第七十六号の二)、メリヤスシャツ(同証号の八)およびジャンパー(同証号の十一)に存する破損状況等は加害者側と被害者との間に行われた斗争がいかに熾烈なものであつたかを物語つて居り、このことはその格斗の強さを考える際看過できないことである。而して領置にかかる前記スプリングコートを仔細に観察すると、その布地は相当程度損耗して居り、僅かの力の作用によつても大幅に破損し易いものと認められるが、前記証人木村英三郎の供述によると、右スプリングコートは同人の父の使用した古衣を仕立替えたものであつて、その生地には裁判所に領置されていたことによつて特に痛んだ個所はなく、現在においても昭和二十四年当時の状態と殆ど変化していないことが認められる。以上の事実を考慮にいれて右のスプリングコートを着用していた被告人が前記の如く体格の良い荒川と格斗した場合を考察すれば、特別の事情のない限り右スプリングコートはかなり大きくほころび、あるいは破れ、前記の如き破損には止まらないものと推認されるばかりではなく、前記の如き柔道の組み方の基本を考えるとき、いかに興奮のために型がくずれたとしても、破損の箇所は右前襟の辺り、あるいは左袖およびそのつけ根の部分であるのが普通であり、その破損の程度はコートの生地に照らし相当大きいものと考えられる。しかるにこの個所にはいささかも異常が認められない。

以上の諸点から考えると、本件スプリングコートに存する破れ目は、その規模および位置から見て、荒川との格斗を肯定する資料とはなし難い。これに加えて被告人が捜査段階から終始一貫「スタングがモンキーレンチで荒川に暴行を加えた際、自分はスタングに後から抱きついて同人を荒川から引き離したが、その際酔つていたためもあり、足がもつれてスタングと共に脇の溝の所え倒れてしまつた」旨、並びに「右スプリングコート及びワイシャツの血痕はスタングがモンキーレチンで荒川の後頭部を殴打した際にその飛沫を受けた」旨(差戻前公判調書中記録一〇一丁以下、差戻後公判調書中記録一八三丁以下)供述していることを合せ考えれば、右スプリングコートに存する破れ目等は被告人の右弁解の如き場合に生じないとは断定し難いものであつて、同スプリングコートの破損ないし同コートおよび着用のワイシャツの血痕の存在をもつてただちに被告人が右荒川と格斗した証左とはなし難いものであることが認められる。

② 差戻前の証拠物件目録によるとワイシャツを昭和二十五年証第四四号の二として登載してあり、差戻前当審第五回公判調書によるとそのワイシャツは被告人が本件行為当時着用していたものとして領置したことが明らかである。しかるに差戻の証拠物件中昭和二十九年第七七六号の二として表示してある物件(ワイシャツ)にはその左胸部に刺し跡が存在し、これは被害者が当時着用していたメリヤスシャツ(前同証号の八)にある刺し跡と符合しておる他、検察官作成の検証調書添附写真中ワイシャツを着用した被害者の写真によると右昭和二十九年証第七七六号の二として表示してあるワイシャツとそのボタンの形状、色および穴の箇数等が全く一致しておることが認められる。他方右目録中同証号の七として登載されている襦袢(米軍用ワイシャツ)を精査すると、首の部分に「 ロシ」と糸で印した箇所があり、これは角弘を表示したものであることが認められる。従つて被告人が本件当時着用していたワイシャツ(差戻前当審第五回公判調書において取調ぺた昭和二十五年証第四四号の二記載のワイシャツ)は右差戻後の昭和二十九年証第七七六号の七襦袢(米軍用ワイシャツ)であつて同証号の二として表示してあるワイシャツではないことが明らかであり、右目録の記録は係官の錯誤により誤記されたものであることが認められる。

(二) 竹入ふじ子に関する前掲証拠((A)の(イ)の③、④)によると、その内容は同人がシャンクスから聞知した事項(以下前者と略称)と被告人から聞知した事項(以下後者と略称)に大別され、梅谷麗子に関する前掲証拠((A)の(イ)の⑤)の内容はシャンクスおよびスタングから聞知した事項(以下両者と略称)であるが、前者および両者においてはシャンクスまたはスタング自身が被告人と被害者との間に格斗が行われたと語つた部分はなく、また後者においても被告人自身が被害者と「けんか」その他格斗したと語つた部分はない。而して右証拠において被告人を被害者荒川に対する犯行に結び付けた個所はいずれも竹入の推測ないし臆測に基く意見が多く、その供述にあまり信頼を措くことは差し控えるのが相当と考える。もつとも検察官は控訴趣意書において「竹入の供述は推測といつても単なる空想的意見とは異り犯行直後犯人と直接対談した者が相手の言葉、態度、感じ等に基き推測した事項を述ぺているのであるから証拠として十分価値がある」旨主張しているが、竹入がかように推測した根拠は右供述に出ている事項以外には認めるものはなくこれによつては検察官主張の如く証拠価値があるとは認められない。

(B)(イ) 一件証拠中被告人がシャンクスおよびスタングと協力して「荒川を古井戸内に投入した所為」を認めうる証拠として検察官が主張している主な証拠は

① 差戻前の当審第四、第五回公判調書中証人竹入ふじ子の供述記載(記録一五二丁以下、一八九丁以下)

② 差戻前の当審第十回公判調書中証人山岸巌の供述記載(同三七五丁以下)

③ 差戻前の当審第十一回公判調書中証人柏原正男の供述記載(同三九一丁以下)

④ 柏原正男の検察官に対する供述調書(同五三六丁以下)

⑤ 田村英三郎の検察官に対する供述調書(同五三三丁以下)

⑥ シャンクスのステートメント(同二九丁以下)である。

(ロ) これ等の証拠を精査しても被告人が自ら若しくはシャンクスおよびスタングと協力して荒川を古井戸に投げ込んだと認めるまでの証拠はない。

もつとも右証拠のうち②ないし⑤によると、被告人は荒川段害の記事が新聞等に報道されない前すなわち犯行の朝勤務先で同僚の山岸巌、柏原正男、田村英三郎その他多数の者に対し自ら進んで右犯行の模様を詳しく語り米兵等が被害者を井戸に投げ込んだ上石などを放り込んだ旨説明したことが認められる。而して検察官は控訴趣意書において「差戻前の当審受命裁判官の証人尋問調書中証人岡田正人の供述記載によると右犯行当時の情況では若し被告人において米兵等の犯行に何等加功せず荒川を井戸に投げ入れたことも井戸の側に行つたこともなければ井戸の存在やシャンクスが石などを投入したこともわからぬ筈である。しかるに被告人はその犯行の朝前記の如く同僚に米兵等が被害者を井戸に投げ入れその上に石などを放り込んだ旨詳しく説明している点などから考えると、被告人が被害者を井戸に投げ入れたことに全く関係がないと認めることはできないのみか却て①の証拠等を綜合すると被告人は荒川のジャンパーを脱がせることについて直接関係しその投入行為に関与していることは疑いない」旨主張している。

しかし

① 犯罪者が犯行の発覚を虞れこれを極力隠すことは人情の常であり、若し犯罪を犯している者が自己との結付は述ぺないとしても新聞などに報道されない前に自ら進んで大勢の同僚に対し犯行殊に殺人の如き重罪を語ることは異例のことである。しからば被告人が前記認定の如く未だ新聞などに報道されない前しかも犯行の朝勤務先の同僚に対し右認定の如き事実を語つていることは検察官主張の如く同人が犯行を犯した証左としてその不利益にのみ観察すべき資料ではない。見方にとつては被告人がその犯行に加功していないために右の如き行為に出たとも認めうる資料である。

② 差戻前の当審受命裁判官の証人尋問調書中証人岡田正人の供述として「本件が起つた日は旧暦の二十八日です、それでその翌日(四月二十六日)の夜八時より夜中の一時まで明暗の程度を調査してみました、それで大体犯行があつたのは十二時頃なのです……中略…私も現場に十二時頃に行つて見ましたが、現場は暗くて街燈はついていなく、現場より百米北側にある街燈と南五、六十米位離れたところにある街燈はついていましたが、別に現場には影響はなく、非常に真暗でした、人の歩いていることは五十米離れていると影はわかりません」との記載(記録二二九丁裏以下)および検察官の検証調書添付の第二見取図中現場の位置、その間隔殊に井戸と現場との距離(最長八米三〇)についての記載(同四四丁)によると、被告人が山岸巌その他の同僚に対して説明した事柄は十米以内で起つた出来事であつて犯行に加功しないでも知り得た可能性もこれを認めることができる。

③ 竹入ふじ子の供述は伝聞証言であるばかりかその原供述をしたというシャンクスのステートメントを調査してもシャンクスは全然竹入の供述に照応する供述はしていない。

④ これ等の事実を考慮すると、前掲証拠だけでは検察官主張の事実を認めることは困難であるといわねばならない。

(C) その他一件証拠を精査しても被告人がシャンクスおよびスタングと共謀の上前記殺害行為に出たと認めうる証拠はない。

(四)  以上で考察した事実によると、被告人はシャンクスおよびスタングの両名によつて荒川文夫に対する殺害行為が行われた際現場に居り、着用していたスプリングコートには破損部、ワイシャツには血痕の附着が認められ、しかも被害者には接触しないにしてもその渦中にあつたスタングには接触しているのであつて、(前掲第二の(三)の(2)の(A)の(ハ)参照)、これ等の諸点にかんがみると、被告人が右犯行に全然関係がないと明白に断定しきることはできないが、さればといつて前記認定事実によつては被告人が右犯行に協力加功しているとまでの心証も惹起しない。結局本件は本位的訴因としての強盗殺人、予備的訴因としての殺人いずれについてもこれを肯認するに足る証拠が不十分な事案であつて、「疑わしきは被告人の利益に」の大原則に従つて処断するのが相当である。

(五)  結論

果してしからば、本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法第三百三十六条に則り、被告人に対して無罪の言渡をなすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

公判出席検察官検事  片倉千弘

昭和三十五年十月二十八日

東京地方裁判所刑事第九部

裁判長裁判官 八 島 三 郎

裁判官 大 北   泉

裁判長新谷一信は転任につき署名捺印できない

裁判長裁判官 八 島 三 郎

〔差戻前の第一審判決〕

判決

本籍 和歌山県新宮市三輪崎百番地

住居 東京都太田区雪ヶ谷町五百一番地

元進駐軍自動車技師

角弘

大正十一年十一月五日生

右の者に対する窃盗並強盗殺人被告事件について当裁判所は検察官井本良光出席の上審理を遂げ左の通り判決する。

主文

被告人を懲役壱年に処する。

但し本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用中証人竹入ふじ子に支給した分は被告人の負担とする。

被告人が米兵シャンクス及スティングと共謀して、昭和二十四年四月二十四日東京都渋谷区上通三丁目二十七番地千野晴方に於いて同人所有のスイス製バソロン十七年型ステンレス側懐中時計一個外懐中時計八個を窃取した点及同年同月二十六日同都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路で荒川文夫を強盗の目的で殺害(強盗傷人)或は同目的なくして殺害(殺人)した点に関する公訴事実に付ては無罪

理由

被告人は、昭和二十四年二月十五日頃、千葉県館山市船形町四百二番地高野さく方に於て、竹入ふじ子所有乃至保管に係る現金一万円、及び背広一着外衣類雑品等合計十数点を窃取したものである。

右の事実は、

一、証人竹入ふじ子の当公廷に於ける供述。

二、被告人の当公廷に於ける供述。

を綜合してこれを認める。

被告人の判示所為は、刑法第二百三十五条に該当するから、所定刑期範囲内で被告人を懲役一年に処し、なお諸般の情状に因り刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法第二十五条に則り本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条を適用して主文第三項の通り被告人に負担させることとする。

なお本件公訴事実中被告人が(一)米兵シャンクス及スティングと共謀の上昭和二十四年四月二十四日午後九時三十分頃東京都渋谷区上通三丁目二十七番地千野晴方において、店員の隙を窺い同人所有のスイス製バソロン十七型ステンレス側懐中時計一個外懐中時計八個時価合計約六万円相当のものを窃取したとの点及び(二)(イ)同年四月二十六日午前零時頃米兵シャンクス及びスティングと同伴して同都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中荒川文夫と行き会うや被告人が同人の上衣を強取することを発議して右米兵両名と共謀し、先ず被告人が右荒川文夫に立向つたが抵抗を受けたので被告人三名が協力して同人を捉え、殺意を以てスティングが所携のモンキーレンチで同人の頭部を乱打しシャンクスが所携のヂャックナイフで同人の胸部左上膊部等を数回突刺し、更に被告人等三名がこれを同所畑中の古井戸内に投入れ、因つて心嚢タンポナーデ脳震盪並に溺死により死亡せしめこれを殺害し、仮りに然らずとするも(ロ)同年四月二十六日午前零時過頃米兵シャンクス及びスティングと同伴して東京都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中荒川文夫と行会い、被告人等が右荒川に道を尋ねたところ同人が笑つた為これに憤慨し被告人は右シャンクス及びスティングと共謀の上協力して右荒川と格闘し殺意を以てスティングが所携のモンキーレンチで右荒川の頭部を乱打し、シャンクスが所携のヂャックナイフで荒川の胸部左上膊部等を突刺し更に被告人等三名がこれを同所畑中の古井戸に投入れ、因つて間もなく同所において右荒川をして心嚢タンポナーデ脳震盪並に溺死により死亡せしめこれを殺害せしたとの点については、いずれも被告人は終始当公判廷において「自分は米兵シャンクス及びスティングの右各犯行につき共謀したことはなく、またこれに協力したこともない」旨弁疏して共謀の点を否認している。

よつて先ず右(一)の事実につき検討してみると被告人が米兵シャンクス及びスティング外一名の米兵と共に昭和二十四年四月二十四日午後九時三十分頃東京都渋谷区上通三丁目二十七番地時計商千野晴方に赴いたところ。右米兵等が店員の隙を窺い同人所有の懐中時計合計九箇を窃取したことは、被告人の当公判廷におけるその旨の供述と、千野晴及びその店員益子昇の検察事務官に対する各供述調書中右に照応する窃盗被害顛末の各供述記載とによつてこれを認めることが出来るが右米兵等の犯行について被告人が予め右米兵等と相談したということまたは暗黙裡に互に意を通じて右米兵等の窃取行為に共同加功乃至幇助したことを認むるに足る証拠資料がない。

次に前記(二)について検討すると、主たる訴因である(イ)の事実に関しては、被告人が昭和二十四年四月二十六日午前零時過頃米兵シャンクス及びスティンとグ同伴して東京都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中荒川文夫と行き会つたこと、シャンクスが同人と格闘しスティングが所携のモンキーレンチで同人の頭部を乱打したこと、同人が同所畑中の古井戸内で死亡したことはいずれも被告人が当公判で其の旨陳述しているところでありシャンクスが所携のジャックナイフで荒川文夫を数回突刺したことは被告人の当公判廷における「シャンクスが被害者に馬乗になつて或はナイフかも知れぬが、突くか殴るかの恰好の動作を何回かしたのを見た翌日(昭和二十四年四月二十六日)午後六時半頃千龍で自分が酒を飲んでいるとシャンクスが呼び出したそして紅ばらという喫茶店の前でシャンクスが新聞には何回被害者を突いたようになつているかと聞いたのでスリータイムズと答えた。それから電車で天現寺の喫茶店に行くとスティングと竹入ふじ子、梅谷麗子とがいて、シャンクスは竹入ふじ子にジャックナイフと時計を預け若し俺が捕つたらジャックナイフは棄ててくれと言つた」旨の依述証人竹入ふじ子の当公判廷における「自分は(昭和二十四年四月)二十七日にシャンクス、スティング、梅谷麗子と一緒に千葉県の館山に行つたが、館山にいる間にシャンクスはスティングがモンキーで相手を二回程殴つた自分はおこつて持つていたナイフでさしたと言つていた」旨の供述を綜合して、また荒川文夫が頭部に挫創、胸部上膊部等に刺創の傷害を蒙り前記古井戸内で心嚢タンポナーデ、脳震盪並に溺死に因り死亡していたことは検察官作成の検証調書及び鑑定人中館久平、皆川守共同作成の鑑学書中の右に符合する各記載のあることによつて夫々認めることが出来るが、右米兵等の殺害行為が被害者荒川文夫の上衣を強取する目的に発したものであり右強取については被告人が発議して右米兵等と共謀したということについての直接の証拠としては唯シャンクスの米軍々事裁判所におけるステートメント中の「一九四九年(昭和二十四年)四月二十五日自分はエドワードGスティング及び日本人角(隅とあるは誤訳と認める以下同じ)という人と一緒に大井町へ行つた、スティングと角と自分は日本の酒場に行つて飲んだ、我々は線路に添つて歩いた、丘の上に来た時日本人が歩いて来るのを見つけた、角は自分とスティングにあの男の衣類を奪おうと言つた、彼等が出会つた時角は彼に話しかけ格闘を始め自分も格闘に参加した」旨の供述記載(翻訳文による)があるのみである。而してシャンクスの右供述は竹入ふじ子の検察官に対する昭和二十四年七月五日附供述調書中「自分は(昭和二十四年四月)二十七日那古船形のおばさんの家に行つてから二日目位の時にシャンクスに喧嘩の様子を聞いたシャンクスは角がコートを脱がせろと言つたとか角がコートをぬがしたとか言つて居た角がコートを云々と云うことは確かにシャンクスから聞いている」旨の供述記載及び柏原正男の検察官に対する供述調書中「自分は一藤の竹入ふじ子が大井から出てきて会つた時に同人は角も一緒にやつたんだろうと話し、尚その時ふじ子は角が米兵に相手の上衣を脱がせろ脱がせろといつたと外人が話していたとも申していた」旨の供述記載によつて、一応裏付けられるようであるが、右各供述記載は証人竹入ふじ子の当公判廷における「自分は船形に行つたときに上衣を後でぬがせたという事をシャンクスから聞いた」旨の供述及び証入柏原正男の当公判廷における「自分は竹入ふじ子から被告人が上衣をぬがせろと言つたのではないかという之を聞いたことがあるが、竹入ふじ子は英語を知らないからその事を米兵から聞く筈はないと思う」旨の供述に照らして被告人が当初上衣をぬがせろといつたのか否か曖昧であり、未だ前記シャンクスの供述を裏付けるに足らず、却つて前記シャンクスの供述はスティングの米軍々事裁判所におけるステートメント中「一九四九年(昭和二十四年)四月二十五日午後八時頃自分はシャンクス(シャンクとあるは誤訳と認める以下同じ)と二人の我々の女友達と角(隅とあるは誤訳と認める以下同じ)と称する日本人と共に大井町に到着し間もなく女性達は別れた、我々は酒場に行つて飲酒した、我々は道路に行つて丁度自分は先頭を歩いていた時反対の方向に行く人に会つた、次にきいたものは誰かの叫びであつた、自分はふり返つた所他の者が格闘していた」旨の供述記載(翻訳文による)と一致しない許りでなく証人竹入ふじ子の当公判廷における「自分は船形でシャンクスから帰りに三人で歌を唱つたところ相手が笑つたので喧嘩になり殺したと聞いた、被害者と最初出逢つたとき被告人が上衣をとろうと言つたという風にシャンクスから聞いたことはない」旨の供述、同人の前記供述調書中「自分は那古船形のおばさんの家に行つてから二日目位の時にシャンクスに喧嘩の様子を聞いた、シャンクスは巡査に道を聞くと巡査がエヘラ笑いをしたので喧嘩になつたと言つていた」旨の供述記載、証人梅谷麗子の当公判廷における「自分は千葉県の館山に行つてからシャンクスやスティングから、被害者に大井町で道を聞いたら相手が英語が分らなくて笑つたので通り過ぎてから何かその人が大きい声を出し馬鹿にされたと思い殴つたら投げ飛ばされて了つたと聞いた」旨の供述の内容となつているシャンクス自身の供述とも矛盾しているから被告人が当初衣類強取を発議したという前記シャンクスの供述は容易には措信し難い。尤も検察官作成の検証調書、証人岡田正人に対する受命裁判官の訊問調書及び押収中の茶色ジャンバー(昭和二十五年第四四号の一一)によれば被害者荒川文夫が前記剌創を受けた後其の着用ジャンバーを脱がされたことは明かであるが押収してある同人の所持品によつて同人は何物も奪われて居ないことが推認出来ることに照し右ジャンバーを脱がした行為が未だ強盗の犯意に出たものとは認めることが出来ずその他凡ての証拠によつても被告人と右米兵等との間に強盗の共謀があつたことを認めるに足りない。よつて進んで予備的訴因である前記(ロ)の事実について検討してみると被告人が昭和二十四年四月二十六日午前零時過頃米兵シャンクス及びスティングと同伴して東京都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中荒川文夫と行会いスティングが所携のモンキーレンチで右荒川の頭部を乱打しシャンクスが所携のジャックナイフで荒川の胸部左上膊部等を突剌し同所畑中の古井戸内で右荒川をして心嚢タンポナーデ脳震盪並に溺死により死亡せしめこれを殺害したことは前記認定の如くであるが右米兵等の殺害行為について被告人が同人等と予め共謀したことを認むべき直接の証拠はない。而してシャンクスの前記ステートメント中「スティングと角と自分は線路に添つて歩いて踏切迄来て番人の日本人に何時かと自分はきいた、角は渋谷行の道路をきいた、我々はおこつた様に歩いた、丘の上に来た時日本人が歩いて来るのを見つけた、角は彼に話しかけ格闘を始めた、自分も格闘に参加した誰か自分を背負投げにしたので、自分は道路にぶちつけられた。自分は起上り再び格闘に参加した処、再び地上に投げ倒された」旨の供述記載(翻訳文による)スティングの前記ステートメント中「我々は鉄道線路迄行き踏切番の家に入つたシャンクスは何時かと番人にきいた角は何か番人に話したが何をいつたか自分は了解出来なかつた。我々は道路についてしまつた、丁度自分は先頭を歩いていた時反対の方向に行く人に会つた、次にきいたものは誰かの叫びであつた。自分はふり返つた所他の者が格闘していた、自分が戻つて行つた所その日本人は二人を投げとばしていた、自分は右の腰のポケットの中にネジ廻しを持つていたのを取り出して日本人の頭部を数回打つた、自分はそこに立つてシャンクスと角が日本人と格闘しているのを傍観した旨の供述記載(翻訳文による)及びシャンクス乃至スティングの供述を内容とする竹入ふじ子の前記供述調書中「自分はシャンクス、スティング、梅谷麗子の四人で(昭和二十四年四月)二十七日那古船形に行き知合いのおばさんの家に行つて五月二日まで居た、二日目位の時にシャンクスから喧嘩の様子を聞いた、シャンクスは巡査に道を聞くと巡査がエヘラ笑いをしたので喧嘩になり角かスティングが道を聞いたらしく先に喧嘩をして相手になぐられたのでシャンクスが手を出した所少し押され気味であつたのをスティングが何かで相手をなぐると相手が倒れたとか転んだとかであると云い、自分がナイフでさしたのが分つていたかと聞くとシャンクスはよつぱらつていたので分らないと云つていた、自分の想像だが角も傍に居たから兵隊二人と一緒に何かをやつたと思う」旨の供述記載、同人の当公判廷における「三人で帰りに歌を唱つたところ相手が笑つたので喧嘩になり殺したということを館山に行つた時シャンクスが言つていた、その外シャンクスの言うところでは被告人が最初相手に投げ飛ばされた、そこで自分が怒つて組みついたが相手は強くてやられそうになつた。するとそれを見ていたスティングがモンキーで二回程殴つた、自分は持つていたナイフでさしたと言つていた」旨の供述、証人梅谷麗子の当公判廷における「自分はシャンクス、スティング、竹入ふじ子と昭和二十四年四月二十七日に館山の船形に行き五日位船形にいた。その間にシャンクやスティングら、被害者に大井町で道を聞いたら相手が英語が分らなくて笑つた、それで通り過ぎてから何かその人が大きい声を出したので馬鹿にされたものと思い殴つたら投げ飛ばされてしまつた、被告人も向うから殴られたと聞いた」旨の供述並びに被告人の供述を内容とする竹入ふじ子の前記供述調書中「(昭和二十四年四月)二十六日シャンクスが自分と麗子に天現寺の喫茶店に待つていろというので六時半頃天現寺の福屋と云う喫茶店に行つて待つていた。三十分位たつとシャンクス、スティングが角と二人で参り、自分が角に昨日何処で喧嘩したのかと聞くと角は大変だつたと云い、向うから来た男に渋谷へ行くにはどちらへ行くのかと道を聞いたら相手の男がセセラ笑つて馬鹿にされたので喧嘩になつたと云い、三人の中誰が道を聞いたかと云う事は云わなかつたが、シャンクスは自分と一緒の時何時も自分に道を聞かせる、この時は角が案内役ですから多分角が道を聞いたのではないかと思つた、又最初相手と喧嘩を始めたのは誰であつたか聞かなかつたが自分が直ぐにあなたが一緒に居てどうしてそんな事をしたのと云うと角はあの時はよつぱらつて何が何だか分らずにやつてしまつたと云つた、その時角は自分に対し、何もしなかつたとか或いは兵隊二人がやつたのだとか自分は関係ないとか云う様な事は何も云はなかつたから自分は角が道を聞いて先づ相手と喧嘩したものと思つた、角は平素手が早いので角が巡査と喧嘩をしてシャンクスが之れに加勢したのではないかと思う」旨の供述記載、を綜合すれば被告人が被害者荒川文夫に先ず道を聞いて笑われ、憤慨して被害者にかかつて行つて投げ飛ばされ、シャンクス、スティングがこれに加勢し被告人と共に被害者と格闘したことを認められるようであるが、前記各証拠を検討してみるならば、シャンクス、スティングの供述を内容とする竹入ふじ子の前記供述記載は多分に推測意見を含み右記載に相応する前記当公判廷における同人の供述と一致しない許りでなく同人は当公判廷において「自分は全く英語は喋れませんがシャンクスの云うことは大抵分り、シャンクスも自分の話す日本語は分る。自分は事件についてはシャンクスから英語と日本語とを混ぜて話すのを聞いたのだと思うが梅谷麗子も始終一緒にいたので或は同人が聞いて話してくれたのかも知れない」旨供述しており、また証人梅谷麗子の前記供述も同人の当公判廷における「自分はスティングもシャンクスもよく知らぬのでただ竹入ふじ子と友達なので同人がいるから一緒に行つたという丈で全く米兵とは話はしなかつた」旨の供述に照らし、いずれもシャンクス乃至スティングから聞いた内容について確実性が少く更にシャンクス及びスティング自体の前記ステートメント中の各供述が互に一致していないこと、取寄にかかる米軍軍事裁判所の同人等に対する訴訟記録の一部によつても明らかなように同人等が軍事裁判所において終始犯行を否認していること、同人等が当公判廷において証人としての証言を拒絶していること等を併せ考えるならば、前記の各証拠に現われたシャンクス乃至スティングの供述なるものは容易には措信し難く、また、被告人の供述を内容とする前記竹入ふじ子の供述記載は全くの臆測であり同人は当公判廷において右供述記載と同趣旨の供述はしておらず、結局前記各証拠によつては被害者荒川文夫に道を尋ねたところ同人が笑つたことが格闘の原因であつたということが認められるに過ぎず、被告人が最初に右荒川にかかつて行つて投げ飛ばされついでシャンクス、スティング等と共に協力して格闘をしたという事は認め難い。次に証人竹入ふじ子の当公判廷における「自分は船形でシャンクスから井戸の中に被害者を入れ、石を投げこんだという事を聞いた」旨の供述、柏原正男の前記供述調書中「(昭和二十四年)四月二十五日(二十六日の誤りと認む)午前九時から十時頃の間に私達のいる前で角が昨夜一緒にいたGI(米兵のことをいう以下同じ)が人殺しをしてどこかへ引きずつて行つた、実は殺しておいて井戸の中へ放りこんでその上から大きな石や石ころなどのものを放りこんだ、奴等(兵隊)が井戸に放りこんだのだと話していた」旨の供述記載、同人の当公判廷における「自分は被告人から昨日大井町で人殺しがあり、その犯人はでGIで自分はその現場にいた、被害者を古井戸の中に投げ入れてその上から石を入れた。酒を飲んで酔つていたのでよく分らないが引きずつて行つて穴の中に放りこんでその上から石か何かを入れたと聞いた」旨の供述、田村英三郎の検察官に対する供述調書中「自分は昭和二十三年五月に現在のPX(港区青山北町ガレージ)に事務員として入社し、角は本年(昭和二十四年)二、三月入社してからの知合で、本年四月二十五日(二十六日の誤と認む)午前七時半頃角はいつもよりは早く出勤して来て、私に話し出した、前夜GI二名と大井駅にゆき事件の被害者に道を訊ねたところが笑つた、それから手をねじられて投げられたその中に一人がモンキーレンチで相手をぶん殴つて一人がジャックナイフで剌した、畑の中は麦も小さく被害者を引きずつて井戸の中にほおりこんだ、その上から石を投げたり土や泥や附迎の藁を上からかぶせたという様な話であつた」旨の供述記載、証人山岸巌の当公判廷における「自分は青山のPXガレージのマネジャーをしていたが昨年(昭和二十四年)二、三月頃被告人が入つて来た、何日であつたか記憶がないが朝出勤したら角もいて皆で集つて話していた、自分は、被告人が昨夜米兵と一緒に歩いていて巡査に道をきいたら巡査が笑つたのでGIと格闘が起り一人のGIがナイフで剌してもう一人のGIがモンキーレンチで殴つて殺し、古井戸迄もつて行つてその中に入れたのを見たという事を聞いた」旨の供述、証人南部尚子の当公判廷における「自分は東京都品川区大井倉田町三千三百四番地に居住しているが本年(昭和二十四年)四月二十六日の午前零時頃近所に人殺しがあつた、自分の家から十六、七米離れた道端で、自分は当時起きて勉強していた、何ういうことをしているのか分らないが二、三人の靴の乱れる音と、助けてという男の声と英語で話す男の声と、線路工夫が鶴嘴を使う時の様なガチャンガチャンという音もしたし、それから人が何かを引きずる様な音も聞いた」旨の供述及び鑑定人皆川守、同中舘久平共同作成の鑑定書中被害者荒川文夫の創傷についての「頭部外景において創口の長径は約一、八糎互至五、〇糎、深さ骨膜に達する挫創八個ある」旨の記載、証人中舘久平の当公判廷における「自分は慶応大学法医学教室の主任教授で昭和二十四年四月二十六日に荒川文夫という人の死体を鑑定したことがある、頭部に八個の挫創があれば脳震盪が起つたものと考えて差支えない、脳震盪が起ついてれば半歩もあるくことは出来ないから二間などは到底歩くことは出来ない」旨の供述を綜合すれば被告人が当公判廷で「自分はスティングがモンキーレンチで被害者荒川文夫を殴ろうとしたので後から抱きついて止めそのまま二人で倒れてしまつた。起き上つて見るとシャンクスが荒川に馬乗りになつて殴つていた、被害者が助けてくれと二声叫んだので自分はテイクオフと現場離脱の意味のことを云つた。すると被害者がフラフラ立ち上つて横の方に歩いて行き見えなくなつてしまつたそしてシャンクスがかがんで覗いているのでよく見るとそこに井戸があり被害者はその井戸の中に落ちたのだと思う」旨弁疏しているように、被害者が前記畑中の古井戸に自ら落ちこんだと見るより投げこまれたと認めるのが相当である様であるが、シャンクスの前記ステートメント中の「自分も格闘に参加した。誰か自分を背負投げにしたので自分は道路にぶちつけられた。自分は起上り再び格闘に参加した処再び地上に投げ倒された、自分が二回投げられた時誰かが自分の上に落ちて来た、目覚める迄格闘以外のことは何も覚えていない、自分が目覚めた時角は自分が日本人にナイフを突さした。又日本人は穴の中にいると告げた、自分は穴の中をのぞき込んだが彼は見えなかつた。水の音を聞いた丈であつた、(水々と云う声が聞えただけであつたとあるは誤訳と認める)自分は梯子を見つけ穴の中へ降り始めた、恐ろしくなつたので出てしまつた」旨の供述記載、スティングの前記ステートメント中「日本人は逃げ出して歩き又転がり穴の中に消えた、角とシャンクスは穴の中をのぞき込んだ」旨の供述記載、証人岡田正人に対する前記訊問調書中同人の供述として、本件の起つた日は旧歴の二十八日でその翌日四月二十六日の夜八時より夜中の一時まで明暗の程度を調査して見た、現場は暗く街燈はついていなく現場より百米位北側にある街燈と南五、六十米位離れたところにある街燈はついていたが別に現場には影響はなく非常に真暗で人の歩いている事は五十米離れていると影はわからない、井戸の処は道路の中央より見ても黒くなつている事はわからないし、それにその井戸は井戸の形をしていないので自分としては犯人がよく井戸のあることがわかつたと思う、井戸のある事は常に此の道を通行している者に聞いても知らぬ程であつた」旨の供述記載に照らして、しかく容易には断定し得ず、仮りに被害者荒川文夫が右の如く古井戸に投げ込まれたものと認めるとしても前記各証拠によつては被告人が自ら若くはシャンクス、スティング等と協力して、被害者を投げ込んだとまで認める事は到底出来ない、これを要するに以上、証拠によつては被告人が前記米兵等の殺害行為に共同加功したことも或は被告人が同人等と予め相談し、乃至意を通じていた事を推認せしめるに足りる事実も認められず、その他凡ての証拠によつても被告人が米兵等の殺害行為につき共謀したことができない。従つて以上検討して来た如く被告人は右(一)(二)の米兵等の犯行現場にいずれも居合せてこれを制止せず且その前後における被告人の態度等には道義的には十分非難に値するものがありまた右米兵等の各犯行について何等かの形でこれに関与していた事を疑わしめるものもあるが、結局被告人に刑事責任を負わすべき犯罪事実を認定するには証拠が不充分であり、犯罪の証明がない事に帰するから右(一)(二)の公訴事実については、いずれも刑事訴訟法第三百三十六条に従い被告人を無罪とする。

よつて主文の通り判決する。

昭和二十五年五月十二日

東京地方裁判所刑事第九部

裁判長裁判官 江里口清雄

裁判官 横地恒夫

裁判官 田宮重男

〔第二審判決〕

昭和二五年(う)第三三二四号

判決

本籍 和歌山県新宮市三輪崎百番地

住居 東京都大田区雪ケ谷町五百一番地

元進駐軍自動車技師

角弘

大正十一年十一月五日生

右の者に対する窃盗並びに強盗殺人被告事件につき昭和二十五年五月十二日東京地方裁判所が言い渡した有罪(一部無罪)の判決に対し検察官から適法な控訴の申立があつたので当裁判所は次のように判決する。

主文

原判決を破棄する。

本件を東京地方裁判所へ差し戻す。

理由

検察官の本件控訴の趣意並びにこれに対する答弁の要旨はそれぞれ東京地方検察庁検事正代理検事井本良光名義の昭和二十五年九月二十六日附控訴趣意書と題する書面及び弁護人木原徳太郎名義の控訴趣意書に対する答弁書と題する書面記載のとおりであるからここにこれを引用する。

案ずるに原審は本件公訴事実中

(一) 被告人は米兵シャンクス及びスティングと共謀の上昭和二十四年四月二十四日午後九時三十分頃東京都渋谷区上通三丁目二十七番地千野晴方において店員の隙を窺い同人所有のスイス製バソロン十七型ステンレス側懐中時計一個外懐中時計八個時価合計約六万円相当のものを窃取したとの点及び

(二)(イ) 被告人は、同年四月二十六日午前零時過頃米兵シャンクス及びスティングと同伴して同都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中荒川文夫と行き会うや被告人が同人の上衣を強取することを発議して右米兵両名と共謀し、先ず被告人が右荒川文夫に立ち向つたが抵抗を受けたので被告人等三名が協力して同人を捉え、殺意を以てスティングが所携のモンキーレンチで同人の頭部を乱打し、シャンクスが所携のジャックナイフで同人の胸部左上膊部等を数回突き剌し、更に被告人等三名がこれを同所畑中の古井戸内に投げ入れ、因つて心嚢タンポナーデ脳震盪並びに溺死により死亡せしめこれを殺害し

(ロ) 仮りに然らずとするも被告人は同年四月二十六日午前零時過頃米兵シャンクス及びスティングと同伴して東京都品川区大井倉田町三千三百七十五番地先道路を通行中荒川文夫と行き会い被告人等が右荒川に道を尋ねたところ同人が笑つた為これに憤慨し、被告人は右シャンクス及びスティングと共謀の上協力して右荒川と格闘し殺意を以てスティングが所携のモンキーレンチで右荒川の頭部を乱打し、シャンクスが所携のジャックナイフで荒川の胸部左上膊部等を突き剌し更に被告人等三名がこれを同所畑中の古井戸内に投げ入れ、因つて間もなく同所において右荒川をして心嚢タンポナーデ脳震盪並びに溺死により死亡せしめてこれを殺害したとの点

についてはいずれもこれを認むるに足る証明なしとして無罪の言渡をしたものである。

しかし本件記録を調査するに

右(一)の公訴事実については 一、被告人の検事に対する第一回供述調書中の供述記載 一、被告人の原審第三回公判廷における供述 一、千野晴方の検察事務官に対する供述調書中の供述記載 一、益子昇の司法警察員に対する供述調書中の供述記載を綜合すれば被告人は少くともシャンクス及びスティング等が時計を窃取しようとする事情を知りながらこれを容易ならしめて幇助したものであると認めるに十分である。

又前記(二)の公訴事実については 一、柏原正男、田村英三郎の検察官に対する各供述調書中の供述記載 一、竹入ふじ子に対する昭和二十四年七月五日附検事の供述調書中の供述記載 一、ジェームスWシャンクス名義及びエドワードGスタング名義の各ステートメントと題する書面(写)(記録二九丁以下及び三五丁以下)中の各記載 一、証人竹入ふじ子の原審第四回及び第五回公判廷における供述 一、証人岡田正人に対する原審受命裁判官の尋問調書中の供述記載 一、証人中館久平の原審第七回公判廷における供述 一、証人南部尚子の原審第四回公判廷における供述を綜合すれば、被告人は少くとも右犯行現場において右荒川文夫と格闘し前示シャンクス及びスティングと協力して同人を死亡するに至らしめたものと認定するのが相当である。

しかるに原審が右(一)の点については、被告人が右米兵等の窃取行為につき共同加功乃至幇助したことを認めるに足る証拠がないとし右(二)については被告人が右米兵等の殺害行為に共同加功したこと乃至は同人等の殺害行為につき共謀したことを認めることができないとして無罪の言渡をしたのは事実を誤認したか又は審理不尽による理由不備の違法があるものであつて、右違法は判決に影響を及ぼすことは明白であるから検察官の本件控訴は理由があり原判決は破棄を免れない。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条により原判決を破棄し同法第四百条本文により本件を東京地方裁判所に差し戻すべきものとし主文のとおり判決する。

検事 小出文彦関与

昭和二十六年七月十日

東京高等裁判所第八刑事部

裁判長判事 三宅富士郎

判事 荒川省三

判事 堀義次

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例